2016年8月15日撮影
◆別名
長湫城
◆所在
長久手市城屋敷
◆交通
◆歴史
永享年間(1429年~1441年)にはすでに城があったとされ、左近太郎家忠(姓不詳)の名前が残る。
享禄年間(1528年~1532年)になると斉藤平左衛門が居城としていたと伝わるが、後に廃城となっていたようで、瀬戸馬ヶ城の土豪であった加藤氏は、弘2年間(1556年)織田信長の品野城戦で織田勢に敗北。長久手まで落ち延び、廃墟であった長久手城を修復して居城とした。
長久手城を本拠地とした加藤氏は地元の土豪などと姻戚関係を深めて一帯を支配していき、戦国時代に入ると当主の加藤忠景は岩崎城主である丹羽氏次の姉を娶り、さらには娘を氏次に嫁がせて、婚姻関係を強化し、長久手一帯の支配権を強固なものとした。
小牧長久手の合戦が起こると徳川方に付いた丹羽氏に従い、岩作東城の今井三郎四郎らと共に岩崎城に立てこもり、豊臣方の池田恒興らと戦い討ち死にを遂げている。
この時に200年の歴史を持つ長久手城も廃城となり、城跡は荒廃していったが、文化9年(1809年)に尾張藩士であった加藤氏の子孫が東廓にあった観音堂の脇に城跡碑を立てて、現在に至る。
なお、丹羽氏次と忠景の娘の間に産まれた氏信は、討ち死にした氏次の跡を継ぎ、後に美濃岩村藩2万石の大名となっている。
◆現在
観音堂の脇に城跡碑が残されているが、遺構としては存在しない。
加藤氏の子孫が立てた城址碑
加藤忠景の墓